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今回は 第十四講義 地平線にはけっしてたどり着けない−マンガ版「ナウシカ」読解その2 についてまとめてみる。 前回の「その1」が表現論的なアプローチだったのに対して物語の内容についてのアプローチである。 基本的には「宮崎駿の仕事1979-2004」の「漫画ナウシカ読解」は同じスタンスである。 構造を「重層的」と捉えて 類似したものにSF的作品として手塚の「来るべき世界」、 マルクス史観的作品として白土三平の「カムイ伝」「忍者武芸帳−影丸伝」を上げている。 「来るべき」は宮崎が小学生の頃に、「カムイ伝」は東映動画で組合活動をしてい頃の作品。 こうした「相対化」する見方を宮崎は生態系に応用した。というのが久美氏の新たな見方である。 マルクス主義に挫折した宮崎が中尾佐助の「栽培植物と農耕の起源」に触発されて 社会進化論思想を「資本論」ではなく生態系に組み入れることで 理想の再生を図ったのではないか、という大胆な仮説である。 また「漫画ナウシカ読解」と同様、「紅の豚」までに『ナウシカ』が終わっていれば ハッピーエンドになる可能性もあったが、ナウシカの土鬼の民に向かって発した 「憎しみよりも友愛を」というメッセージはユーゴスラビア紛争などの 現実問題によって説得力を失ったため、規定路線での物語の終結を迎えられなくなった。 この後、「漫画ナウシカ読解」の時よりはやや控えめに母・美子との関係を取り上げて「母性」 の問題に入っていく。庭園の主との会話は立場の性別を逆転させて(つまり庭園の主=美子、ナウシカ=宮崎) 再現した宮崎と母・美子の論争なのではないか、という見立てである。なかなか刺激的。 またこの庭園の主との会話のシーンに、自分の創作活動の根拠が揺らいでいる宮崎駿を見、 それは手塚が「火の鳥 鳳凰編」で我王と茜丸の戦いに仮託して自分の思いを表現したのと類似すると指摘。 しかし、宮崎はこの難問に対して最終決戦前の前哨戦として庭園の主との対決を用意したのだろう。 それは永井豪の「デビルマン」の伝統でもある、というこれまた刺激的な指摘をする。 ナウシカは母として生きる。親から祝福されない滅びてゆくだけの今の人間たちは「孤児」であり 母に愛さなかったナウシカはこの「孤児」の母になることを決意する。 ナウシカが最後にセルムの念話に心の中で「ハイ」と答える表情を「怖い」と捉え この表情の中に矛盾する思いを隠匿したナウシカを発見している。ここはモナリザの秘密に迫る… みたいで面白い。 最後に氏は、マンガ版『ナウシカ』は、私達が抱く文化人イメージの駿を クリエイターの駿が圧倒した稀有な作品だとまとめる。しかもそれでいて大衆作家の魂は 最後まで捨てなかった。同時に文化人の駿とクリエイターの駿が『ナウシカ』最終巻で はっきり乖離したとも言えると述べいる。 最後のまとめは美子が「四兄弟で駿が一番やしい子だった」と述べたというエピソードを紹介して 余韻をのこして終わる。…ちょっと演出過多という感じもしないではないが…(笑)。 結果的には「駿の仕事」の「漫画ナウシカ読解」とほぼ同じ内容と言えると思うが マルクス主義に挫折した宮崎が中尾の論をてこに生態系にシフトを変えたという指摘が 新たに、というかより具体的に述べられている。 最後のまとめである文化人とクリエイターの両面を持つ宮崎が乖離していく、という表現が 今ひとつ分かりにくい気もするのだが、これ以後、つまり「もののけ姫」以降の作品が どれも物語の途中から破綻していく−裂けていく−のはこの時始まった兆候だと氏は指摘する。 つまり二人の宮崎が戦い、反発しあってそうなる、ということなのだろう。『ナウシカ』では クリエイターとしての宮崎が圧倒したとあるが、それ以降の作品では文化人としての 宮崎が優勢だったのか…それとも拮抗してしまって、もっと始末に負えないということか… といった問は、同書の「もののけ」や「千と千尋」の講義を聴けば納得できるように なっている。 前回紹介した表現論的アプローチと合わせてマンガ版『ナウシカ』について 非常に示唆にとむ評論になっており、『ナウシカ』を語るものはぜひ読むべきだと思う。 |
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>余韻をのこして終わる。…ちょっと演出過多という感じもしないではないが…(笑)。 |
KK 2012/03/04 03:57 |
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