『愛すべき娘たち』に対する意図的な「誤読」の可能性

「Girls'Comic At Our Best! vol.04」に載っている高柳紫呉氏の
「『愛すべき娘たち』に対する意図的な「誤読」の可能性」について感想を書く。

『愛すべき娘たち』はオムニバス形式で書かれているが、一話と最終話が対をなして
二話から四話をつつむ(この表現が適当かどうかは別にして)形となっている。

二話と三話を取り上げる紫呉氏の眼力は確かである。

特に二話の登場人物 滝島舞子についての分析は読み応えがある。
(内容には触れない。関心のある方は是非一読していただきたい。)
愛もまた制度ある以上、合目的的である。
愛という響きがもたらす普遍的・汎神論的な目に見えない縛りが
多くの人にあると思う。
滝島舞子はそう言ったものからもっとも自由であり、かつ遠い存在だと
思う。愛という制度の合目的性を自らに(無意識的に)引き寄せて
なんの迷いもない。こうした愛のあり方はとても現代的だ。
人間が二人必要だが、恩恵にあずかるのは一人だけ。
いままでもそうだったと皮肉めいて言うことはできるが
そうではなく、最初から一人しかいないということである。
しかけとしての相手は必要だけど、それはしかけなので
要するにだれでもいい。
最も弱く、最も虐げられている者が、実は最も自己中心的で強いという逆説だ。

これに対して三話の若林莢子はどうであろうか。
一見、滝島舞子の逆の立場に立つように見える彼女はどうなのか。

マルクス主義者の祖父の「決して人を分け隔てしてはいけない」という言葉を
忠実に生きる彼女は
弱い人、浅はかな人、賤しい人には限りなく寛大である。
しかし、純粋で魅力ある人に気持ちを寄せようとすると
あの祖父の言葉が彼女を縛る。
結局だれをも平等に愛してしまう莢子は誰をも愛せず修道院へいってしまう。

もしかしたらよしながふみはシスターを描いてみたかっただけなのかもしれない

が、もちろんそんなことではないだろう。
人を愛することは人を分け隔てすることだという莢子の言葉は真実だ。
しかし、それはあまりにも当たり前ではないか。

この話は誰からも愛される人間が、結局誰をも愛せない/愛してしまうという
パラドックスを表していると言えば簡単だ。

誤読ということを紫呉氏が認めてくれるなら
そうではなくて
シスターになるのもまた己にとって合目的的なことであり
ある種の自己中心主性の現れということだろう。
その意味で舞子と莢子の距離はさほど遠くはない。
愛という幻想をフィルターに己を捨てずに生きることを考えれば
この二人のどちらかのタイプになる。あるいはこの二つの間の無数の点の一つになる。

ただ、そういう理由より
単にシスターの立ち姿を描いてみたかったというのが真実だと思う(笑)
その為の前振りが三話全体なのだろう。
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