「偶然・アイロニー・連体」 

昨日「一般意志2.0」を読んで
ローティのことが、非常に分かりやすくまとめてあったので
「そんなに分かりやすい話だったっけ?」と思って
棚から「偶然・アイロニー・連体」を引っ張り出してきた。

自分の読解力のなさを露呈するようで恥ずかしいが
始めて読んだとき、分からなかった。
予備知識の不足ということも大きいと思うが
どうも翻訳文体に合う場合と合わない場合の差が極端で
入ってこない時は全然入ってこないということもおこる。
もっとも、問題はそれだけでは勿論ないのでこれは「いいわけ」である(笑)。

さて、この本は

〈公共的なものと私的なものとを統一する理論への要求を捨て去り、
自己創造の要求と人間の連帯の要求とを、互いに同等ではあるが
永遠に共約不可能なものとみなすことに満足すれば、
一体どういうことになるのかを明らかにすることが、本書の試みである。〉


と書き始められる。もうこの辺から私の理解はあやしい(笑)。

個人的に印象深かったのはフロイトについて述べているところで

〈(フロイトは)人類を本有的特性、つまり開発されるべきか
または開発されずに放置されるべき本有的諸力の一揃いをもった
自然種と見なさなかったのだ。フロイトは、カントにあるプラトン主義の残滓と、
ニーチェにある逆立ちしたプラトン主義の両者と決別したのだが、
そのことによって、ニーチェの超人とカントにおける普通の道徳意識の両者が、
数ある適応形式の中の二形式を(言い換えるなら、人間が成長してゆく際の偶然に、
つまり人間が盲目の刻印に折り合いをつけてゆく際の偶然に対処する上での
数ある戦略の中の二つを)例示しているのだ、という見方が可能になったのである。〉


という部分。
ローティは、フロイトが〈自己創造という私的な倫理と、相互調停という公共的な倫理を峻別〉
したと捉えている。その立場からカントとニーチェをこんな具合に再記述しようとしたわけだ。

東浩紀がローティについてまとめている部分を引用してみる。

〈(ローティは)異質な人間か集団を結びつける公的な原理、彼の言葉を借りれば
「連体」の原理は、理性とは別のものによって基礎づけられねばならないと考えていた。
ではそれはなにか。結論から記すと、ローティはそれが「想像力」だと主張している。〉
「一般意志2.0」

これはローティの次の部分に対応している。
〈私のいうユートピアにおいては、人間の連体は「偏見」を拭い去ったり、
これまで隠されていた深みにまで潜り込んだりして認識されるべき事実ではなく、
むしろ、達成されるべき一つの目標だ、とみなされることになる。この目標は
探求によってではなく想像力によって、つまり見知らぬ人びとを苦しみに悩む仲間だと
みなすことを可能にする想像力によって、達成されるべきなのである。連体は反省によって
発見されるのではなく、創造されるのだ。〉


そして、東は、この「想像力」がルソーの言う「憐れみ」と似ていると指摘してこの二人を線で結ぶ。
このように、ローティの「連体」と、東のいう「一般意志2.0」はリンクしてくるというわけだ。

ローティが「漫画」について触れている部分を紹介しよう。

〈盲目の力、そして剥き出しの苦痛に対する私たちの関係は、
私たちが人格を相手にして結ぶ種類の関係とは違うからだ。
人間ではないものや言表不可能なものに直面したとき、
私たちには専有や変換という手段によって
偶然性や苦痛を克服する能力などなく、
ただ偶然性と苦痛を承認する能力のみがあるにすぎない。(略)
他の人間存在を「彼ら」というよりむしろ「われわれの一員」と
みなすようになるというこの過程は見知らぬ人びとが
どのような人びとなのかについて詳細に描写し、
私たち自身がどのような人びとなのかについて描き直す、
という問題なのである。以上のことは理論によってではなく、
エスノグラフィ、ジャーナリストによるレポート、漫画、
ドキュメンタリー・ドラマ、そしてとくに小説といったジャンル
によって担われる任務なのだ。〉


「連体」=「憐れみ」を担うものとして「漫画」があるというわけだ。
「漫画」すごいぞ! なるほど「連体」は「どうぶつ」的だ。
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