ナウシカ読解-ユートピアの臨界-

1996年3月に発刊された稲葉振一郎氏の評論。

私がこれを読んだのは、1999年2月だった。
当時勤めていた甲府西高校で
『パネルディスカッション「風の谷のナウシカ」を読む』という
企画を思い立ち、西高の7人の先生をパネリストにして
各分野からマンガ版「ナウシカ」について語ってもらった時に
基礎資料の一つとして読んだのが最初だった。

国語の先生2人(うち1人はお坊さん)、
社会の先生2人(倫理・世界史)
理科の先生2人(2人とも生物)
英語の先生1人(ニーチェの好きな新採用)
の7人と、私(司会者)の8人で行った。
地元のテレビ局や新聞社も入って、結構にぎやかだった。
生徒がかなり聞きに来て、質問などした。

宮崎駿氏に来ていただきたいとジブリにお願いの電話をしたら
当然のごとく断られたが、大学ではそういう催しがあってご招待を受けることはあるが
高校でははじめてきいた。頑張ってください、と担当の方に励まされた記憶がある。

話を戻そう。
稲葉氏の『ナウシカ』論は、次の四つの質問を提示するところから始まる。
(1)なぜ絶望の淵に沈み、王蟲とともに森になろうとうしたナウシカは、セルムの導きに基づき
「青き清浄の地」を見出したことで生きる力を取り戻すのか?
(2)なぜナウシカはヒドラの牧人のまもる庭園で真相に達することができたのか?
(3)なぜこの真相を知った後でもなお、ナウシカは人類を滅ぼしにいくのかも知れないと知りつつも
墓所に赴き、それを封印し、かつ自分の知り得たことを秘密にしたのか?
(4)なぜクシャナは、ユパの死という犠牲を払ってでしか王道への覚悟を決めることができなかったのか?

氏はこの問いを足がかりにマンガ版『ナウシカ』を読解していく。
その際に引用されるのはノージックとアーレントだった。
ノージックのメタユートピア論を引きながら氏は
『ナウシカ』で描かれた世界がノージックが想定しなかったユートピアを描いていると言う。
「青き清浄の地」は、多くの民の憧れる理想郷である。しかし、実際にはその地には
誰一人たどり着くことが出来ない。人間は「火の七日間」前後に
汚染された環境で生きられるようにその身体を改造されている。
また腐海という環境浄化システムも地球が生んだものではなく、
この時期にその時代の人間達が人為的に作りだした
人工的な生態系だった。人間は清浄な地では暮らしていけない。
清浄な空気を吸うと肺から血を吹き出して死んでしまうのだ。
だから、「青き清浄の地」は、腐海の働きで確実にこの地球に実在し、これから広がっていくのだが
人間とってはたどり着くことのできない〈ユートピア〉なのである。
ナウシカはそれを牧人とのやりとりの中で知ったにもかかわらず、その秘密を秘匿した。
人びとの夢であり、生きる支えである「青き清浄の地」を否定することなく
あえて伝承のままにして、真実を自分の心の中にしまい込んだ。
氏はこの「青き清浄の地」をノージック的な「枠」よりも高次の「メタ・ユートピア」だと見た。

ナウシカはかつての人類が用意した地球が清浄になったあとに目覚める筈だった
善良な人類の卵をオーマを使って(この場合もオーマをある意味騙して利用して)破壊した。
ナウシカは約束されていた人類の未来を破壊した。ナウシカは本当は救世主ではなく
破壊者だった。彼女のこの行為は何を意味するのか。またそれは許されるものなのか。

氏は次にアーレントを引き、彼女の唱える「労働」「仕事」「行為」について概括したあと
次のような展開を試みる。「行為」は単なる生存と生殖、自己維持(アーレントのいう「労働」)でもなく
また形あるモノの製作(彼女のいう「仕事」)でもない。それは人間が自己を表現することであり
更にいえば、他人に対して表現されることによってのみ成立する。その意味で「行為」は
相互行為のことであり、「言葉」と不可分である。
さてこうして「行為」を捉えた上で「政治」について考えると、政治は人間の世界を異質な他者へと
開いていくと同時にあまりに異質過ぎてコミュニケート不能な他者をそこから閉め出すという
側面を持たざるを得ない。
氏はここで「倫理」という言葉を持ち出してこう説明する。「政治」的な課題の個人的な引き受けを
「倫理」という。政治がマクロ的なものであるのに対して倫理はミクロ的なものである。
ナウシカのシュワの墓所の破壊という行為は「政治」ではなく「倫理」の問題である。
ナウシカは数千年後の人類の確実な滅亡と引き替えに、人間に何が起こるか分からない
未来を切り開いた。それは自らの「倫理」をこの世界に残したことだが、同時に将来の「政治」的可能性に
限界を与えた。だからナウシカの決断は「政治」の向こう側に「倫理」の場所を残したように見えて
実は「墓所」が企んだ浄化の計画と同程度に「政治」的なものに過ぎないとも言えるのではないか。
ナウシカですら想像しなかった未来が到来しないかぎり彼女のやったことはせまい意味での「政治」では
ないのか。「倫理」はこうして結局は自分の限界の外側にあるものに下駄を預けなくてはならなくなる。
それがほかならぬ「青き清浄の地」だったのだと稲葉氏はいう。

さて氏の論はこの後、クシャナをめぐっての考察に移りさらに深まっていくのだが、
ここまででも随分と長くなったので今回は省かせてもらう。

この「ナウシカ読解」は優れた評論である。ネット上には「難しくて分からない」的な感想や
『ナウシカ』を読むのにこんなことまで考えなきゃダメなの的な発言も散見されるが
『ナウシカ』は氏自身が「あとがき」で述べているように「そうした語りを誘発するテクスト」であるし
そうした営為は決して無駄ではないと私自身も思う。

氏の論述の中で一つ気になるとすれば
「私達の身体が人工で作り変えられていても 私達の生命は私達のものだ
生命は生命の力で生きている その朝が来るなら私達はその朝にむかって生きよう
私達は血を吐きつつくり返しくり返しその朝をこえてとぶ鳥だ!!」
という部分の「鳥」の解釈である。
氏はナウシカが墓所を破壊することが人類の未来の可能性を否定することになると
墓の主が言ったとき「それはこの星が決めること…」と答え、例え人類が滅ぶことになっても
「鳥たちが渡ってくるように」生じるかも知れない他の可能性、たとえそれが人類のとっての
愛の可能性、理解の可能性の外側にしかないものであっても、そうしたたのたちのために場所を
をあけておく…というのがナウシカの決断だと捉えた。

私が気になるのは、「鳥」は当然例えだとしても、「私達=鳥」とナウシカがいっていること。
もう一つはその「鳥」が「くり返しくり返し」「とぶ」と述べている点である。
人間は清浄化が果たされた「朝」、血を吐いて死滅する。
しかし、なんど血を吐こうとも、くり返しその「朝」をこえるためにとびつづける、とは
いかなることを指しているのだろう。

私はここから、やはり「倫理」や「正義」について氏とは違う射程で捉え直すことが出来るのではないか
と思っている。
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この記事へのコメント

KK
2012年02月29日 23:08
>高校でははじめてきいた
そういえばなさそうですね。小学校なら意外とあるかも。

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