マンガと「戦争」

1997年12月に刊行された夏目房之介先生の講談社現代新書。
マンガに描かれた「戦争」を辿ることで
戦後マンガを俯瞰した評論である。

扱われているのは

手塚治虫「幽霊男」「来るべき世界」
ちばてつや「紫電改のタカ」
水木しげるの貸本戦記マンガ
小沢さとる「サブマリン707」
白土三平「カムイ伝」
滝田ゆう「銃後の花ちゃん」
林静一「巨大な魚」
佐々木マキ「ヴェトナム討論」
ダディ・グース「学聖の星『'70の部』ON THE BEACH」
さいとう・たかを「ゴルゴ13」
永井豪「デビルマン」「バイオレンスジャック」
松本零士「宇宙戦艦ヤマト」
大友克洋「気分はもう戦争」「AKIRA」
宮崎駿「風の谷のナウシカ」
かわぐちかいじ「沈黙の艦隊」
一色伸幸/山本直樹「僕らはみんな生きている」
GAINAX/貞本義行「新世紀エヴァンゲリオン」
など。

手塚の「異者どうしの矛盾と和解」というアンビバレンツな戦争観
水木の兵隊としての過酷な体験からくる英雄主義でも犠牲行動の賛美でもない
報われない「死」という戦争観
しかし異なるこの二人の作家は、戦争「死」を絶対に愚かなことと見なし、何はともあれ
「生きている」ことを肯定する「倫理」であったという点では共通していた。
一方少年誌の戦記マンガは戦争を普遍化するものではなく野球マンガや忍者マンガと
おなじようなレベルでゲーム的に戦闘を扱っているものが多かった。
そして敗戦国である日本が持ち続けいてたコンプレックス…倫理や理念というよりは
物質的に、また技術的に負けたのだという免罪符的な考えに後押しされるような
マンガも出てくる。ジーゼル駆動の潜水艦707が運航技術で原潜に互したりするシーンに
それらは見られる。
団塊の世代が60年代後半に入り、青年期を迎えるとガロやCOMで手塚・水木の戦争とは
違う、階級間の戦争が描かれるようになった(白土三平「カムイ伝」など)。しかし69年頃から
こうした既成左翼的な作品に対しての不満から、林静一や佐々木マキ、滝田ゆうなどに指示が移る。
「戦争」はやがて旧左翼の戦争/平和や新左翼の戦争/革命という図式からも外れはじめ
表現したい何かは表現内容ではなく、表現様式に変容してしまう。
こうした閉塞感の中、永井豪が、手塚が持っていた異種同士を和解させる媒介者(アトムのような)
であることに絶望した主人公を描くようになった。デビルマンは絶望したアトムであり
ここにおいて戦後少年マンガの背骨にあった正義と悪の構図は完全に転倒される。
一方で、先の大戦のシンボル的存在であった戦艦大和をSFの世界に置き直した
「宇宙戦艦ヤマト」がブームとなる。既に第二次大戦への日本人のコンプレックスや
様々な思いは薄れ、戦艦大和も悲劇の戦艦といった捉えられ方で若いファンに受け入れられた。
これは戦争の象徴であったもののポップな戯画化であり、敗戦国ナショナリズムはここに
おいて昇華されたと言える。
大友克洋/矢作俊彦の「気分はもう戦争」では、登場人物が「気分」だけで戦争と遭遇し
偶発的に死んでいく。大義名分も自己犠牲もなく、ただひっそりと人に知られずに死んでいく。
戦争ですら官僚的なシステムの中でデキレースのようになってしまっているという殺伐とした
雰囲気を淡々と描いた。もはや正義や倫理ということもなく、こそにあるのは趣味的な気分だけであった。
つづく「AKIRA」では、永井豪のもっていた廃墟における暴力的肉体による開放感すら再現することが
できず、病んだ内向的身体イメージへと移り変わっていった。

そしてこの後に宮崎駿の『ナウシカ』の分析が来る。
『ナウシカ』はかつて少年マンガがもっていた正義と少女マンガが持っていた清純の背後にあった
善意、言い換えれば戦後マンガ的な「倫理」を引き継いだものだった。
つまり、手塚マンガの正統な後継だった。(この部分はとても面白い)
しかし、80年代以降の日本でこの作品が説得力を持ち得たのはなぜだろう。
夏目はそこに意匠の違いをあげる。たとえば
(1)破壊後の世界から物語りが始まること
(2)生態系的な世界観が覆っていること
(3)人間の身体が侵されていること
(4)そこからの救済物語であること
をあげている。
『ナウシカ』は浄化のために人間個人の生命を世界の再生のために差し出すことができるか
それとも人間一個の生命をとるのか、という現代の我々が抱える生態系至上主義や神秘主義への
傾倒などにまつわる危うい問いでもあった。
ナウシカは人間のほうへと最後の場面で帰ってくる。ここに手塚の倫理に似たものを宮崎に見る、と
夏目はいう。この感覚は手塚以来の戦後のマンガが持ち得たまっとうなバランス感覚でもある。
ただ宮崎は手塚の生命倫理を生態系全体に敷延して展開した。が、その決着は宗教の領域に
入って行かざるを得ず、だからこそナウシカは「人間」の側に戻ってくるしかなかったのだ、とまとめている。

手塚へのアンビバレンツな思いを持つ宮崎を、手塚の正統な後継と指摘する部分が
ある意味で宮崎駿という不可解で矛盾した人間を極めて端的に表しているようで面白い。
さて、前回書いた稲葉振一郎のノージックやアーレントを引用した「倫理」「正義」「ユートピア」と
この夏目先生の戦後マンガ史における戦争倫理の流れ・系譜という二つの倫理問題は
どこかで接点をもつことができるだろうか。

80年代に描き始められた『ナウシカ』が、戦後まもなくの手塚の倫理を引き継いだとして
作品の持つ射程はもっと長いのかどうか。いろいろ検討してみたい。
手塚治虫1928年生まれ、宮崎駿1941年生まれ、押井守1951年生まれ、庵野秀明1960年生まれ
という10年前後ほどの間隔で登場した4人の作家たちについても戦争倫理という点で
できたら考察してみたい。
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この記事へのコメント

KK
2012年03月02日 00:06
夏目さんのあの本は私もぼろぼろになるまで読み返したひとりです。7月の自主ゼミにおじゃました帰りに本人から「あんたの本読んだけど俺が書いたのかと思った」と言われて恐縮でした。私のナウシカ論で『ロック冒険記』のロック焼け焦げのコマと『ナウシカ』のユパ串刺しのコマを並べて論じたのはあの本に刺激されてです。惜しいかな夏目さんは『もののけ姫』を肯定しちゃうんですよね~彼の限界を見たような気がしました。

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