「究極の、そして最も幸福なアマチュア」

阿部幸弘氏による1997年の評論。(ユリイカ・臨時増刊 「宮崎駿の世界」青土社 1997.8)
副題は「マンガ家としての宮崎駿」。
早い段階でマンガ版『ナウシカ』について表現論的な立場で書かれた論である。
と同時に副題にあるとおりマンガ家としての宮崎の在り方ちついてふれた貴重な論でもある。

まず氏は冒頭、メーヴェの滑走するシーンを絵コンテ、マンガ、フィルムコミックで3つで比較対象する。宮崎は絵コンテ的な連続の時間を描くのではないマンガの世界を表現するために挑戦しているのだが、ぎこちなく、平均的なマンガ表現としてはフィルムコミックのコマ割りに及んでいない。

このように宮崎はコマ割り(とデフォルメ)に関して、殆ど無垢の素人ような手つきをしている。しかし、それは宮崎はがマンガの原点に立ち返り、そこから自分なりのマンガ表現を少しずつ発明し積み上げていくというとんでもない作業をマンガ『ナウシカ』の冒頭から正にスタートしたことを示している。その後、宮崎のマンガは洗練されていく。その意味で『ナウシカ』には、記号の使用にしろコマ割りにしろすでにスタンダードが出来上がってしまった日本のマンガ全体を対象化するだけのオリジナルな時間構造が秘められている。もっともそれは決して充分完成されてはいなのだが…。

また宮崎が長編マンガに手を出したのは
(1)視覚的なメディアで(2)長編を(3)個人で描くことを目指したからだろうと推論する。アニメは集団製作であり、マンガであってもアシスタントを使ってプロダクション・ワークに描くことだってできる。しかし、宮崎は非常に孤独で内省的なやり方で一人こつこつと物語を紡いだ。そうすることで複雑な彩を織りなす壮大な編み目のような物語を作ろうとしたのだろう。

こうしたことができたのは商業的な常識から遠い月刊アニメ情報誌での連載だったからではないか。『ナウシカ』の執筆は一種の「行」に近いものがある。そして裁ち切りと見開きの大コマは各一カ所しか使われて居らず、
常に抑制的で拡散を許さないコマ使いがされていると指摘する。

また氏はフリーハンドにこだわる姿勢が、ではアートに近いものかと言えばそうではなく、『ナウシカ』は大衆的な物語性の共有を目指しているとする。ただマンガにしては原初的禁欲的な部分が多いため、平均よりは幾分絵物語寄りの位置に在ると考えられる、とする。

最後にコマの過剰な抑制、ネーム以外はみな手描き、物語の密度は以上に高い。古色蒼然とした先祖返り的な形式、紙質の悪い、胸躍らせる冒険マンガ。エコロジーだの何だのと言う前にこの作品は血と殺戮を描くバリバリの戦争マンガだ。そして人ならぬ力を持つナウシカという一人の少女の冒険奇譚なのだ。さらに忘れてならないのはこのような作業を宮崎は他の誰のためでもなく自分のためにしたということだ。

こうして阿部氏は、宮崎が絵の技術や物語構成のセンス、イメージの豊かさなどどれを獲ってもプロ以上の水準なのにマンガとの距離感が優れてアマチュア的だと結論づける。

優れた評論だと思う。示唆も多い。
マンガ家としての宮崎に着いて述べたもので
この水準を超えるものをまだ見ない。
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この記事へのコメント

KK
2012年03月11日 03:10
あの評論が惜しいのは『もののけ姫』賞賛の論証として『ナウシカ』論をやってるところです。あれで台無し。そういえばメビウスが亡くなったとか。
はやおとうじ
2012年03月11日 07:14
コメント有難うございます。
メビウス氏亡くなったんですね。
私も今ネットで確認しました。

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