宮崎駿の仕事1979-2004

久美薫先生の2004.11に刊行された評論。
先生には「宮崎駿の時代1941-2008」もあるが、そちらは後日紹介したい。

「宮崎駿の仕事1979-2004」は

第1章「ルパン三世/カリオストロの城」に潜ってみよう
第2章「風の谷のナウシカ」の胸が大きい理由は
第3章「天空の城ラピュタ」とアニメ・ポルノグラフィー
第4章映画と小説の間で-「となりのトトロ」にみる故郷喪失者論
第5章「魔女の宅急便」キキの生まれた家
第6章「紅の豚」の経歴を探る
第7章マルクス主義者はふるさとを目指す-「耳をすませば」小論
第8章ついに空宇宙分解した「もののけ姫」
第9章こどものいないユートピア-「もののけ」にみる宮崎の組合運動体験
第10章作者の神の手が多すぎる「千と千尋の神隠し」
第11章千尋が帰された本当の理由
第12章漫画ナウシカ読解
第13章宮崎さんという抑圧装置
補論「日本のアニメはどん詰まり」発言の真意を探る

からなる。刺激的な章名である。
さて全編にわたって述べたいのだがここでは
第12章で扱われているマンガ版『ナウシカ』についての氏の論について見てみたい。

まず氏は『ナウシカ』の構造は「ドラゴンボール」的な
主人公が敵とぶつかり、それを倒すと今度はそれが仲間になり、更に強い敵が現れる
という循環を持っていることを指摘する。
次にマンガ版の方がアニメ版よりも母性の影が濃いことを指摘して
宮崎の母である美子と宮崎との関わりを大泉実成の「宮崎駿の原点-母と子の物語」を
拠り所にしながら探りはじめる。宮崎が小学校に入学した年、母が脊椎カリエスになって
病床の人になったこと。「ラピュタ」のドーラのモデルとも模されるバイタリティーあふれる美子が
宮崎が高校2年になるまで闘病生活を送ったこと。美子が「文藝春秋」を読む政治・経済・外交にも
明るい女性で、左翼的な立場だった宮崎と激しく対立し、口論したことなどを紹介している。
その母は昭和58年7月、ちょうど『ナウシカ』の映画化が決まった頃にこの世を去る。
それ以降、天安門事件、冷戦終結、ソ連邦崩壊、東ヨーロッパでの民族紛争激化と時代は激変期に入る。
この頃、司馬遼太郎・堀田善衞との鼎談「時代の風音」のあとがきで宮崎が「心情左翼だった自分が
経済繁栄と社会主義国の没落で自動的に転向し、続出する理想のない現実主義者の仲間に
だけはなりたくありませんでした」と述べ、加えて、母・美子が「人間はしかたのないものだ」と
口癖のようにいっていたことを司馬と堀田の「人間は度し難いものだ」という言葉の中で
思い出したことなどを紹介している。

『ナウシカ』は「紅の豚」以前に終わっていれば、多分ハッピーエンドになったのではないか。
それもナウシカが多くの子どもをうみ、そだてるような。しかし、物語はそうはならならず
宮崎本人が執筆を開始したときの思惑とも大きくかけ離れたものに進展していったと氏は推察する。

ナウシカは母に愛されなかったという事実を庭園の主との会話で告白。
つまり、『ナウシカ』とは母のいないものたちの母に母のいない者がなる物語なのではないか。
それは、物語終盤で巨神兵に名を与え母として振る舞うところにも現れてくる。
アニメ版に無邪気に感動していた読者もその姿勢を問い直されるという形で物語りは進む。そして
氏はユパの最後に手塚の「ロック冒険記」のラストシーンを重ね合わせ、異者どうおしの和解という
手塚のモチーフが正統に宮崎に受け継がれていると指摘。これは昨日紹介した夏目房之介とほぼ
同じ主張と言える。さらに氏は、合理主義とニヒリズムの混交体とも言えるトルメキア王であるヴ王の姿に
宮崎自身の姿を重ね合わせてもいる。

墓所の破壊を氏は〈母親に愛されなかった者が、同じ「母」に愛されることのなかった地球上の
すべての生物の「母」代わりを務め、共に生きていこうとする物語〉であったのでは、と結んでいる。
『ナウシカ』は作者にとって自らの理想主義遍歴をエコロジカルな自然観→労働共同体への志向→
家族エゴへの嫌悪→母への思い出、と辿っていく旅だったと見ている。

この考察は「宮崎駿の時代1941-2008」で更に深化していくことになるのだが
今日はここまでの範囲で私の感想を述べたい。

宮崎駿と母の関係は、宮崎の携わった作品を理解する上で重要なファクターであると思う。
伝記的な事実からそのことを無批判に持ち込むことにはやや慎重を要すると思うが、
避けては通れない問題だろう。多くの論者がこの点について触れており、先ほど紹介した
大泉実成「宮崎駿の原点」というルポもある。
ただ、テクスト論の洗礼を受けた者としてはテクスト内の読み解きにもう少しウエイトを
かけたいという思いがあることも確かであり、あるいはまた母について述べるのであれば、例えば
父勝次との関係はどうなのかも等しく問いたいという気持ちもある。次回作が伝記的な内容で
かつ父の人生に触れるらしいという情報もあり、氏のいうヴ王のニヒリストとしての一面などには
勝次の面影もあるのかもしれない〈これは完全な当て推量だが〉などという可能性もあるからだ。

母に愛されなかった者が母に愛されない者たちの母になる話というとらえ方には説得力がある。
こうした切り口以外にどのような面から『ナウシカ』に迫れるかというのが当座の私の苦しむべき要点だ。

久美先生はこの後「宮崎駿の時代1941-2008」で相当の紙数を割いて
表現論的なアプローチと、物語論的なアプローチを試みるのだが、それはまた次回に紹介しようと思う。
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この記事へのコメント

KK
2012年03月02日 16:01
>手塚のモチーフが正統に宮崎に受け継がれていると指摘。これは昨日紹介した夏目房之介とほぼ同じ主張と言える。
というか夏目ナウシカ論をそのまま流用したんですよアレ。『ロック』と酷似した展開、酷似した構図を宮崎が描いたのはおそらく無意識だと思いますが、彼のなかの手塚DNAが作用したと解釈しています。自分の存在理由、表現意欲の根幹を探っていくうちに子どもの頃に読んだ初期手塚漫画の感動がああいう形で現れたのではないか、と。あと夏目さんの「ブラックジャックを解剖する」をすごく意識して論じました。母のイメージを読み取るという切り口は『アマデウス』の応用です。モーツアルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』を観劇した主人公が「あの亡霊騎士は彼の死んだ父親だ!」と喝破するところ。『仕事』のナウシカ章では私もあの歌劇のあのシーンの音楽をがんがんにかけて書き綴っていました。懐かしい。

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