宮崎駿の時代1941-2008(1)

久美先生の宮崎駿に関する評論。
2008年10月刊行。
この本は講義録という体裁を取っている。
もっともそれは架空のものである。
菊地成孔/大谷能生の「アフロ・ディズニー」を想起させる趣向だ。註の入り方なども似ている。

さて目次を見てみる。

講義初日 オリエンテーション
第二講義 アニメーションは百歳になった-技術的視点から眺める「アニメ」と「アニメーション」
第三講義 「ルパン三世カリオストロの城」に潜ってみよう
第四講義 「風の谷のナウシカ」は「父」を殺す
第五講義 「天空の城ラピュタ」の二人はセックスをしたか
第六講義 バーチャルふるさと論-「となりのトトロ」
第七講義 「魔女の宅急便」は「夫」を探す
第八講義 どこにも着地できない「紅の豚」
第九講義 私の「ふるさと」はどこ?-「海がきこえる」「耳をすませば」
第十講義 飛べないナウシカ、「もののけ姫」
第十一講義 神の手が多すぎる「千と千尋の神隠し」
第十二講義 反戦ってなに?-「ハウルの動く城」
第十三講義 「ぼくはもともとマンガ家志望だった」-マンガ版「ナウシカ」読解その1
第十四講義 地平線にはけっしてたどり着けない-マンガ版「ナウシカ」読解その2
前期最終講義 「崖の上のポニョ」公開を控えて

「宮崎駿の仕事1979-2004」と同じ章名になっているところが二つある。「カリ城」と「千と千尋」。

さて、今日はこの中の第十三講義についてまとめたい。
この講義はマンガ版『ナウシカ』をマンガ表現論的な側面から分析している。
そして初めに述べてしまうが、『ナウシカ』についてこの方面から論じた論評の中では
間違いなくもっとも優れたものであると思う。これ以上のものは今の段階ではない、というのが
私の個人的な感想である。

まず久美氏は、マンガが「映画的」であるとはどういう事か、という点からはじめる。
そして、映画における「つなぎ」の仕方を4パターン紹介する。
ここでそれを紹介するのは紙面の関係で無理なのだが
簡単にいうと
A…カットが切り替わっても舞台は同じで同主体が出続けるケース。
B…カットの切り替わりによって場所も完全に切り替わるけれど同一主体が引き続き出てくる。アクションは途切れる。
C…カットの切り替わりで場所も主体も切り替わる場合。別シーケンスになる。
D…カットの切り替わりで場所も主体も代わり、そして再度カットが切り替わってもとの主体が再登場する場合、時間経過を省略。

これをそれぞれマンガに適応させバターンA' A'' B' B'- C' Dと分類。これも残念ながらここでは詳細には説明できない。
このパターンを例えば伊藤剛が「テヅカイズデッド」で引用した「MASTERキートン」の場面に適応して、なぜこの作品が映画的に思えるのかを分析している。その結果、浦沢がA'とD'を多用しているためだと結論する。

更にこの方法をマンガ版『ナウシカ』で試みる。するとA''やB'などの本来映画的には見えないような使い方があるにもかかわらず、それが宮崎の独特の手法で映画的になっていると分析(ここには泉信行氏の「漫画をめぐる冒険」で扱われた観点なども含まれていると思う) 。
また戦闘シーンでは、A'とD'が多用され、とくにA'が圧倒的に多くなることなどを分析している。
またB'の部分でも音喩や形喩、そして台詞を非常にうまく使って流れを途切れさせていない例を挙げている。
夏目房之介氏が『ナウシカ』の中でアニメからの逆輸入とてもいうべき映画的シーンとしてあげた4巻124頁のシーンをそのまま引用し、それがA'B'D'A'というつなぎになっているからこそ映画的に見えることを実証してみせた。
また、連載1回目がどうしてぎこちなかったのかもこのパターンの読み取りから分析しており、冒頭シーンのアニメとの比較によってそれを実証している手つきもかなり見事である。
音喩がないこと、背景を白くとばすこと、そして映画でいうオーパラップを使うことなど、マンガ版『ナウシカ』がなぜ映画的に見えるかの詳細な分析がつづく。
そしてどの回がペン入れをせず、鉛筆のままかなどまで考察をひろげる。

最後に久美氏はこうまとめている。
〈TVアニメで「映画」を追究してきたアニメーター達の長年の努力と、マンガで「映画」を追究してきた日本のマンガ家達の努力が、絶妙かつ骨太に融合して再生産されたのがこの「風の谷のナウシカ」だった。〉

最初にも言ったが、マンガ版『ナウシカ』の表現論的分野でここまで詳細にまた論理的に分析したものはない。
私が『ナウシカ』の研究を始めた頃、マンガ版と絵コンテを比較しうる部分(たとえばテトをユパからもらい受けるシーンなど)を通してマンガにおける「時間」について述べてみたいと思っていた。マンガにおける「時間」の考察は必然的に「映画的であるとはどういうことか?」という地点にたどり着き、そこで「スラムダンク72頁の無音-非映画的手法について-」を書くことにも繋がったのだが、『ナウシカ』分析は遅々として進まなかった。そのうちに、久美氏がここまでやってしまったわけで、後につづくものとしてはこの氏の分析を統計学的にマンガ版『ナウシカ』全巻で試みて、有意な数字を拾い上げて何か言えることを探すくらいしかない!!と言えるまでにオリジナリティの高い研究である。と思う。

さらに加えるなら、この氏の分析から、宮崎駿という才能が、他のアニメーターとどんな違いを持っているのかも照射できるという凄味がある。なぜ、宮崎駿は凄いのか。才能があるから。ではその才能とはどんなものか。今までこの問いに具体的かつ実証的、論理的に答えられた人は少ない。しかし、「つなぎ」のパターンの分析から、宮崎がどんな技を使って見る者にどんな効果を与えて来たかが、他の(普通の)アニメーターとの相対的な比較からも実証できる可能性をしめしている。この点は特に高く評価できる成果だと思う。
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この記事へのコメント

KK
2012年03月02日 21:44
あのコマつなぎ分析は自分でもよくできてると思ったのに反応があまりなくてめげました。元ネタがあってスコット・マクラウドの『マンガ学』です。(ある外国人から類似を指摘されました) 表現者はある域に達すると「自分はなぜ表現をするのか?」と自分を問い詰めだすという話もこの本が元ネタです。(そこに『火の鳥鳳凰篇』の茜丸VS我王のイメージが重なった) 『漫画をめぐる冒険』は今に至るまで読んだことがないので影響となると…夏目ブログで少し紹介があったのを読んだくらいかな。『アフロ・ディズニー』が出たのは『駿の時代』の後ですね。ただ同著者コンビの『東京大学のアルバート・アイラー』㊤を編集さんに送って「こんな感じの本にしたい」と説明しました。もっとも綴っていくとむしろ夏目さんの『手塚治虫の冒険』に文体が似てくるので自分でも驚きでした。(あと『文学部唯野教授』の講義部分) 宮崎が手塚の影響下にあることを実際にまんがを描くことで自覚していったように、自分も論じていくことで、笑いのセンスも含めて夏目さんの影響がすごく大きいことを思い知りました。なにしろ週刊朝日のデキゴトロジー・イラストレイテッドまで夏目歴がさかのぼるから。(マセガキ!) 砂澤スラムダンク論は長谷邦夫氏がブログで「今号で読むに値するのはスラダン論ぐらいであとは低調」と綴ってらしたのを目にして知りました。「あっやられた先を越された!」と思いました。ナウシカ論で唐突にスラダンの絵を入れたのは「どこのどいつか知らんが花道くんは渡さない!」という意地でした。まさかあの論の著者本人にあれ読まれるとは夢にも思いませんでしたが。
KK
2012年03月02日 21:51
『漫画をめぐる冒険』は正しくは『漫画をめくる冒険』でしたね。
はやおとうじ
2012年03月02日 22:32
KK様、コメント有難うございます。「漫画をめくる冒険」でした。私のミスが感染してしまいましたね。幸いに私は「漫画をめくる冒険」上下巻とも持っております。お貸しすることもできると思いますので、またご連絡ください。
コマつなぎ分析に反応が少ないなんて…。私的には意外な感じです。スコット・マクラウドの『マンガ学』は不明にして未読です。絶版で手に入りにくいのと近くの図書館にないためですが、これを機に手に入れて読みます。必読図書ですものね。「どこのどいつか知らん」奴と今こうしてやりとりしてくださっていることに私は大いに感謝しております(笑)。

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