宮崎駿マンガ論-「風の谷のナウシカ」精読(1)

小山昌宏氏による2009.6に刊行された評論。

目次は以下の通り。

序 宮崎アニメから宮崎マンガへ-なぜ宮崎駿マンガ論なのか
一 「風の谷のナウシカ」-物語の系譜 マンガとニアメの相違点
二 「風の谷のナウシカ」-包囲と色彩の地政学
三 「風の谷のナウシカ」-語りの水準とマンガ表現
四 「風の谷のナウシカ」-生命の起源とその課題
五 「風の谷のナウシカ」-火の文明と森の文明
六 「風の谷のナウシカ」-シャーマニズムとアミニズム
七 「風の谷のナウシカ」-天使と悪魔のよりそう大地
八 「風の谷のナウシカ」-文明の終焉とユートピアの再生
あとがき

一つ一つの章ごとに簡単にまとめながら感想を述べてみたい。

一の「物語の系譜」ではプロップやユングなどの敷衍しながら、「神話・伝説・昔話」という物語形式上の形態的作用を分析する。ナウシカに小野小町を重ねたり、「スターウォーズ」と『ナウシカ』のキャラクターの構造比較をしながら多角的に物語の底に潜むものを探っていく。そこに氏は〈救済されるべき対象は「人類」ではなく「男性」であること、「聖女伝説」で、女性に救済されたがる男性(宮崎駿)が、尚も女性を支配し続ける心の闇を、うっすらとみてしまう〉という宮崎の持つ「男性原理」を見ている。

また、マンガに比べて、単線的な救世主伝説になってしまい、宮崎本人も後ろめたさを感じ、さらに押井守にも糾弾されたアニメ版の軽薄さについて、アニメにはマンガにない動線・音声・色彩・音楽をともなって(軽薄さが)増幅されることによって魔力的な魅力をもったと述べる。そしてその主要な要因として島本須美のこえと久石譲の音楽を取り上げ、それらがポリフォニックに立体化して、それまでになかったテーマ性を提示した画期的なアニメ作品になったと述べる。全体的にやや舌足らず(説明不足)の観が否めない気がしてしまう。引用される理論がやや衒学的に感じられるきらいもあるように思う。しかし、ジェンダー的観点やアニメ版の再評価については興味深い。

二の「包囲と色彩の地政学」では物語全体を登場人物の関係性を軸にまとめる。そかにはナウシカを主軸とする物語と、ユパを軸とする物語があり、それが合流していくのだとする。また、そこに方位学的な分析を活用して図式化して野心的に解説しているが、個人的にはやや説得力に欠ける印象がある。

三の「語りの水準とマンガ表現」では、物語の構成を叙法(語り方)と態(語りの水準)に注目して考察している。
まず氏は『ナウシカ』がマンガであるが故に、ナレーターとキャラクターがコマ内において明確な人称区別が
つけられていないことを指摘。この、マンガであることによる特有性は、『ナウシカ』の語り手が物語りの外から
俯瞰的に物語り全体を把握しているわけではなく、物語の方向性を示すという最小限度の役割をはたしているに過ぎないことの現れだという。作中に登場する「語り」は僅か6カ所しかない。態でみると殆どの語りは「俯瞰」パターンなのだが、完全に俯瞰的な態度(神の視線)に徹しているわけではないため、語り手がある意味で「語り部」のようにふるっている。つまり、この語り手の「語り」は、直接登場人物に影響を与えることがない。むしろ『ナウシカ』では登場人物の「語り」があたかも「語り手」のような「俯瞰性」と「客観性」をもつ表現上の工夫がなされている指摘している。…これは面白い指摘だと思う。

登場人物の「発話」は本来主観的であるはずなのに、結果としナウシカのもとめる「世界の秘密」に同化していく。
登場人物を語り部とすることで、読者と物語の背景を共有させるとともにナウシカにその解明の資格を与えるような働きをしている。…この指摘も面白い。

次に登場人物の語り方と語りの水準についての考察がある。上下関係をしめす序列、例えばヴ王→ナスリム・ミラルパ(→チャルカ)・双子の皇兄→クシャナ→クロトワなどがある。これに対して水平関係にあるものとして、ナウシカ-王蟲、ナウシカ-ユパ、ナウシカ-テト、ナウシカ-アスベル、ナウシカ-土鬼僧正、ナウシカ-森の人、ナウシカ-チクク、ナウシカ-チャルカ、ナウシカ-クイ・カイなどである。そして物語の進行とともに上下関係は次第に水平関係にシフトチェンジする。この上下・水平いずれから外れるモノとしてナウシカ-オーマがあると氏は指摘する。また「語り方」についても、上下関係では「命令法」の多用がみられるが、ナウシカは仮定法・直接方・命令違法・祈願法とあらゆる現津を駆使して上下関係を水平関係にシフトさせている様子が窺える。

次にマンガ的表現方の考察がある。アニメは声優によるキャラクター付けが明確だが、マンガでは誰が発話しているのか分からないようなシーンの作成が可能であり、それを意図的に使っているのだと指摘。そしてこのマンガ表現手法は物語構造を強化する方向に働くとしている。読者がその意図にしたがってキャラクターと不安や焦燥を共有する。しかし、『ナウシカ』ではさらにもう一歩進んで、世界を取り巻く焦燥感は世界と自意識の違和ではなく、実は自分の中にある虚無からもたらされていると気づいた時から、物語構造はほころびを見せ始め、結果としてシュワの墓所と対峙し破壊するに至るという変質がある。

この過程をコマ割りなどの面ではどう支えているか。そもそも特殊な版型の『ナウシカ』というマンガはコマが小さく、ある意味で読みにくい。大胆な大コマでのクローズアップや捨てゴマでの全体位置の把握などという基本的なルールは応用されていない。そのためスピード感の自在な変化に対応しやすい。ところが、6巻辺りからコマ内の描写が見違えるほど鮮明になり、いわゆるマンガ文法に則った奥行きある情景設定が増える。それはあたかも絵巻物のような静的な絵が動画のように回りはじめるかのようだと氏は指摘する。この変化は7巻までつづく。つまり語りの水準とマンガの表現レベルが物語構造の強化から物語構造の反転へと併走、物語の終焉に融合してゆくのだという。もっともコマ割り自体はさほど変化していない。それは宮崎駿の生体的なリズム感覚と、実は宮崎自身がまだ物語の中で世界の終末に立ち向かう勇気を持つことに懐疑的だったからではないかと推測している。

神話・伝説・昔話→ロマンティシズム・アンチユートピア→リアリズムへと向かう物語構造。
語りと登場人物の「語りの」の同質化、語りの主観性が共同主観性ひいては客観性にむかう物語構成。
キャラクターの突出を抑え、抑制されたコマ割りとコマ運びをそのままに物語構造と物語構成にマンガ表現が寄り添うこと。
以上のことを総合することでアニメ版の弱点を克服し、「説明」と「物語性」を分離させる近代小説的方法をこえて、『ナウシカ』は稀代の「マンガ物語」として成立したのだ。というのが氏の説である。
このナラトロジーを駆使した物語解析と表現論を結びつける手つきは非常に面白いし、それなりの説得力を感じる。氏のもっともオリジナリティを感じさせる肝の部分だろう。やや、テクニカルタームが多すぎて、なんの素地もない者(私もその一人だが)には難解なイメージは拭えないのだが…

長くなったので続きは次回に
画像

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

KK
2012年03月04日 04:18
これは読んだ覚えがない…もくじを見て「ああもういいや」って思ったのは覚えています。

この記事へのトラックバック